念願だった介護の仕事の手伝いをさせてもらった。
なにか役に立てることができないかと思いずっと考えてきたこと。
いま日本の中で老齢化が進んでいることはいろいろなニュースや出来事の中で一番大きな問題だということが前々から百も承知であったがなかなか踏み込めない自分に苛立ちを感じていたのだが、たまたま古い友人がその職に就いていることが最近わかったことだ。
早速久々に連絡を取ってみたのだがなかなかいい返事が貰えなかった。
が、最近その友人から連絡をいただいた。
彼の勤めている会社のオーナーのオーケーが出たので「見学というカタチでどうでしょうか?」という答えだった。
もちろん、二つ返事で引き受けた。
友人が携わっている介護は「行動援護」というものだった。
「行動援護」とは障害のある方の行動や健康チェックをしたり施設から自宅までの道のりを安全と安心ををもって送ってあげたりするものらしい。
僕にとっては初めて聞く言葉だったが、そういえばたまに街などで同行しながら手をつないだり一緒に歩いていたりという光景を見るかとがあるのを思い出した。
障害者と一口に言ってしまうと大きな括りになってしまうがいろいろな種類(失礼な言い方になってしまうが)があるものだと再認識をさせてもらった。
障害というと知的なものから身体的なものまでたくさんある。
この「行動援護」というのは先に書いたとおりだがまた別の「同行援護」といものもある。
僕とってはどっちも同じに聞こえるがどこが違うのかを調べてみた。
興味を持っていたことなので少し前になるが研修のための本を購入していたので読んでみた。
行動援護
自己判断能力が制限されている人が行動するときに、危険回避するために必要な支援、外出支援を行う。
同行援護
視覚障害により移動に著しい困難を有する人が外出するときに必要な情報提供(代筆、代読など)をおこなう。そのほか外出する際に必要な援護をおこなう。
ぱっと見るとよく似ているのだが同行援護の方は視覚障害者に対する支援のようだ。
視覚障害者を同行するということはかなり難しい気がする。
彼らの目となり耳となりまた歩く方向などの地形やあらゆる感覚の代行支援だから結構大変らしい。
この支援にはまた別の講習を受けたりする必要があるようだ。
僕自身も2年ほどまえに右足を歩いていて旅行者の大きなキャリーカートに巻き込まれて右足を骨折したことがある。
その話はまた別の機会に書き込みたいと思うが松葉杖を使って市街地を歩くということの不便さ、怖さ(この場合の怖さというのは歩行者同士、自転車、段差など)を感じていた記憶がある。
ものが見えないということは相当怖いのではとおもう。
視覚障害者の事故にあった話をたまによく聞く事がある。
なんとか未然に察知しておせっかいでも注意の言葉をかけてあげるようにしてはいるがなかなかそうはいかないのだろう。
障害のある者に優しい社会や環境、また人々の優しいおせっかいは決して無駄ではないだろうし邪魔なものでもないだろうと思う。
今回は行動援護、同行援護についてちょっとだけ書かせてもらいました。
本来あるべきノーマライゼーションを目指して一歩ずつ自分が近づいていこうと思う。

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