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介護の現場は相変わらず忙しい
デイホームは利用者を迎えることから始まり自宅へ送り届けるまでの間、一日中、忙しい。
それでも、忙しさの中に楽しい時間を過ごしてもらえるならばこんなに素敵な仕事はないかもしれない。
排泄排尿という大きなイベントはその日の一番のことだろうと思う。
介護施設はいろいろなタイプが存在するのだけれど僕が通っているのは「小規模多機能型」
小規模多機能型居宅介護と正確には言うらしいのだが
小規模多機能型居宅介護とは、介護保険制度で創設された地域密着型サービスの一つで、同一の介護事業者が「通所(デイサービス)」を中心に、「訪問(ホームヘルプ)」や「泊まり(ショートステイ)」を一体的に提供することができます。
それまでの介護サービスは、利用者や家族の状況に合わせて「通所」「訪問」「泊まり」を選択しそれぞれ必要なサービスを契約するという形でしたが、利用者を取り巻く状況は日々変化し、その都度利用するサービスを変更することは「介護事業所を新たに探す必要がある」「信頼関係の築けたスタッフや利用者と離れることへの不安」など、利用者やその家族ともに大きな負担が生じます。このような負担や不安を解消しサービス選択の自由度が高いところが、この小規模多機能型居宅介護の大きな特徴です。
大きな施設と違って小回りが利くという意味ではかなりいいのではないかと思う。
なんといっても素晴らしいのは職員の目が介護される人たちに行き届くのが一番だ。
ここにはもちろんいろいろな人たちが集まってくる。
認知症の方や少し体の不自由な方、そして比較的元気な老人、明るくおしゃべりが好きな方々、、などデイホームとして利用されている方も多い。
職員の数もその日によって違うが意外と十分な対応ができているのではないだろうか。
大きな介護施設となると一つの仕事しか出来なく個人に対してコミュニケーションさえ取れない感じがする。
大規模な有料老人ホームもたくさん増えているのが現状だがそれはそれで必要なのだが朝から晩まで排泄の仕事しか出来ないというジレンマも生まれるようだ。
数百というルームを抱えているところも少し経験してみたが自分の精神状態がおかしくなった経験がある。
私達の介護職というスタンスは何なのだろうか?ずっと悩んでしまった。
そういう中で働いている方たちを見ていて尊敬してしまう反面、仕事という流れ作業で一日を終わらせてしまうのはどうなのだろうかと自分が落ち込んでしまった。
確かに仕事ではあるのだからノルマを終わらせるだけで介護者、利用者とのコミュニケーションなんてなかなか取れないではないか、果たしてこれで利用者は満足できているのだろうか?家族はそれで理解してもらっているのだろうか?などとずっと考えてしまった経験がある。
利用者の家族とのコミュニケーションは一番大事な要素であるにもかかわらずあまりにも事務的な対応しかしていないのではないだろうか?
僕は初心者の域から出ていないので理想論を掲げてもしょうがないことなのだが同じ人生を老い先短いのならば少しでもいい思いを、楽しい思いを作ってあげたいと願うばかりだ。
認知症の方たちの相手をしているとふと思うことがある。
本当にこの人は認知症で何もわからないのだろうか?
もしかしたら目の前にあることは認識しているのではないのだろうか?
ちゃんとこちらの言っていることが分かっているのではないだろうか?
と思うことがある。
記憶中枢は短い時間の中でもちゃんと機能しているのではないだろうか?
ただ記憶を残していく時間が短いだけだろうとは思うが、その場のことはいたければ「痛い」というし、「ありがとう」という言葉も出てくるのだからこれはちゃんと脳が働いている証拠だと思う。
「わからないから何をやっても大丈夫」という危険な判断は良くない!
介護施設職員の不祥事がニュースで取り上げられている。
認知症や身体不自由な方や知的障害を持っている方達を相手にしていると正直な気持ち「何でこんなことができないんだ!ったく!」などという感じになったりすることはないだろうか?
僕は「あります!」
そう思わない人もいるのかとは思いますが正直な気持ち僕は「あります!」
その時自分はどうするのか?
一時的な感情をどうやって抑えているのだろうか?
- 暴言を吐く
- ひっぱたく
- 蹴っ飛ばす
- 殴る
- つねる
出来ないですよ、僕は、、
自分の母親の時を思い起こしたりすると不思議と穏やかな気持ちになるのが僕の場合です。
わがまま言えるのは身内だけ
だからこの人たちは身内だと思ってくれているのだろうと思いなおします。
肉親に言われたら簡単に暴言は吐けません。
昔、子供の頃ずいぶん悪態をついて母親をきっと困らせていたのだろうと思うととてもこの人たちに対して汚い言葉は使えませんね。
「このくそ婆!誰も生んでくれと頼んでいない!!!」
など思い出し、後で後悔したことが何度もあるのだけれど、家に帰ればご飯が待っていた、という思い出はだれもがあるのではないだろうか。

相手の身になって考えるなどという綺麗事は言いません。
なんでこの人は怒るんだろうと考えいます。
もしかして
排泄の場合に限って言えば
ちょっとした気持ちが相手に移入していなかったのか、それとも、寒いのか、ズボンを下すときに黙っていたからかなど自分の行動を振り返ることにしています。
そういうことで相手は意外と優しくなって落ち着いてくれることが多いのです。
人は幸せになる権利は誰にでもあるわけだから、
この先の人生がどのくらい残っているのかは未知数だ。
少なくても僕たちよりは先に亡くなる可能性は高いのだから少しでも楽しい気持ちで幸せを作ってあげたいと思っている。
